秋の修善寺
九月の末におくれ馳せの暑中休暇を得て、伊豆の修善寺温泉に浴し、養気館の新井方にとどまる。所作為のないままに、毎日こんなことを書く。
来客というものはおかしなもので、不意の来客はそれほど驚かないが、きまりきった客が何か約束があって私の家を訪れてくるというような場合、なんとなくこちらも身構えるような気分になる。怖いというほどではないが、先方が、電車の吊皮にぶらさがったり車の中にうずくまったりしながら、一路、私のところをめざしてきている。その姿を思うと、やはり、なんだか怖い。
— 色川武大著『怪しい来客簿』より
ちょうど川に夕潮がさしてくるのと同じような速さで、土手の上の人影はばらばらとなくなって、桜だけがほの白く残る。この昼のにぎやかさと夕ぐれの寂しさを子供が見逃すわけがないのであるが、おとなという子供のなれの果は、そこを庇ってはくれなかったのである。
— 幸田文著『春の翳』より
渓流の波頭に騒ぐ北風も、一日ごとに荒らだってくる。そして波間に漂う落葉の色を見ると、奥の嶺々を飾っていた紅葉は、そろそろ散り始めて山肌をあらわに薄寒く、隣の谷まで忍び寄ってきた冬に慄いているさまが想えるのである。
そのころ、澄んだ渓水の中層を落葉に絡まりながら下流へ下流へと落ちていく魚がある。これを木の葉山女魚という。
— 佐藤垢石著『木の葉山女魚』より
頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。
— 寺田寅彦著『科学とあたま』より
九月の末におくれ馳せの暑中休暇を得て、伊豆の修善寺温泉に浴し、養気館の新井方にとどまる。所作為のないままに、毎日こんなことを書く。
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